本多政勝侯について

本多政勝侯の生涯について

慶長十九年徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝の子・忠朝大多喜城主の次男として誕生。

元和元年父忠朝が大阪の陣で討死した時は政勝はわずか二歳。その為本家筋の忠政が庶流五万石を相続し竜野城主となり、政朝は兄の忠刻(千姫の夫)が三十歳で亡くなり、寛永八年父の遺領十万石を受け姫路城主として本家を相続した。

その為これまで受け継いできた庶流五万石の内四万石は、内記政勝に一万石は弟忠義に分知された。

寛永十五年の秋ごろから政朝が病に倒れた。政朝の息子に政長がいたが、本多家には「馬の乗り下りの自由に出来ないものは領主になれない」という忠勝以来の掟があった。

そこで従兄弟の政勝に家督を渡し、番代ということで本多本家を相続させた。そこで政勝は姫路城主となる。

寛永十六年四月十八日姫路から郡山へ国替えを命ぜられ、播州をたって、大阪から竜田越で大和国に入り、五月五日、郡山に入城した。この時郡山十三町からそれぞれ五本ののぼりを出して祝った。いわゆる「郡山のぼり揃の始まり」である。

入部した当時の「内記政勝公御家中分限帳」によると、家老都筑惣左衛門(三千五百石)を筆頭に総人数二千七百五十七人という大集団入部で、歴代郡山藩のうちでは最高であった。

政勝は器量勝れ豪勇の士で、「大内記」とも「鬼内記」ともいわれ、行儀正しく他家に勝った家風を世人は「本多風」と呼んだという。

剣は荒木又右衛門に習った。また、俳諧、茶、和算書等文化面でも秀でていた。

延宝年間、郡山城下の家数は四千七百件、人口は家中を除き、人口二万人を数えた。

寛文十一年十月晦日、江戸柳原屋敷で死去。享年五十八歳。遺言により遺骸を郡山に送るため十一月三日江戸を出発。途中箱根関で手形のない遺骸は通さないと阻まれたが、小田原城主稲葉美濃守の計らいで通行を認められ十七日郡山に着く。同十一月十七日良玄寺につき十八日に火葬し、二月二十三日に遺骨を高野山に納める。此時供奉した者は良玄寺の法師を始め、大橋図書、吉弘甚左衛門、朝倉、芦屋、松下、牧、黒田と言われている。

戒名 長徳院殿前拾遺泰誉迎和道永大居士

 

1614年~1671年(生没年)

父、上総大多喜藩二代藩主本多忠朝。

養父、播磨姫路藩二代藩主本多政朝。

幼名入道丸。従四位下、内記、侍従。

 

1631年~1638年
播磨姫路新田藩三代藩主。

 

1638年~1639年
姫路三代藩主。

 

1639年~1671年
大和郡山初代藩主。

正室(日向県藩初代藩主有馬直純の娘)
子、長男勝行(1635年~1650年)
次男政利(1641年~1707年)
四男又四郎君(1648年~1650年)


本多政勝侯と傘堂

大和郡山藩十五万石(勝行侯の知行四万石は別高)中、葛下郡(かつげぐん、現葛城市中)かつらぎのしものこをり内三十五ヶ村、二三二七一石余の郡奉行を務めていた吉弘統家(よしひろのりいえ)が主君郡山藩主本多政勝侯の菩提を弔う為、1674年(延宝二年)に建立した影堂、位牌堂で現在奈良県有形民俗文化財に指定されている。この地は当麻寺と山口神社、二上山の登山口で大池の隣接地でもある。大和盆地には大河川がなく、灌漑用溜池は必要不可欠であり、民生の一貫として、吉弘統家による大池普謂は地域住民に恩徳として受け止められ、藩主に感謝のしるしとして造立された。傘堂は施餓鬼供養などを行い、現在に致るまで守り続けられた。

本多家は中臣鎌足大職冠藤原氏が祖と言われ、又吉弘統家は大友宗麟の三人の加判衆の一人吉弘鑑理(あきなを)を先祖に持つ。本多家発祥の地は豊後国城臼杵の本多郷、大分県に本貫地を持ち、過去のつながりが主従関係となった様だ。